知恵は呼ばわらないのか、 悟りは声をあげないのか。
祭の終りの大事な日に、イエスは立って、叫んで言われた、「だれでもかわく者は、わたしのところにきて飲むがよい。
そして、その名によって罪のゆるしを得させる悔改めが、エルサレムからはじまって、もろもろの国民に宣べ伝えられる。
預言者イザヤによって、 「荒野で呼ばわる者の声がする、 『主の道を備えよ、 その道筋をまっすぐにせよ』」 と言われたのは、この人のことである。
ただ、聖霊があなたがたにくだる時、あなたがたは力を受けて、エルサレム、ユダヤとサマリヤの全土、さらに地のはてまで、わたしの証人となるであろう」。
こうして、福音はまずすべての民に宣べ伝えられねばならない。
すると、主がわたしに言われた、『行きなさい。わたしが、あなたを遠く異邦の民へつかわすのだ』」。
この時からイエスは教を宣べはじめて言われた、「悔い改めよ、天国は近づいた」。
召された者自身にとっては、ユダヤ人にもギリシヤ人にも、神の力、神の知恵たるキリストなのである。
わが子よ、もしあなたが わたしの言葉を受け、 わたしの戒めを、あなたの心におさめ、
わが子よ、わたしの教を忘れず、 わたしの戒めを心にとめよ。